地震・津波が置き去りにしたそれぞれの被害
2011年3月11日に起きた大きな地震と大きな津波は東北の各所で実に様々な被害をもたらしました。当時クボタ環境エンジニアリングは東北支店のもと、東北6県の11事業所で維持管理などの業務をしていました。
2013年3月。震災から3年。福島県の楢葉町の浄化センターのように原発事故の放射能の影響で復旧がままならない事業所もある中、少しずつ復旧工事なども進み、稼働を再開した事業所もあり、そんな仙台と釜石を訪ねました。
仙台、南蒲生浄化センターは海沿いにある大きなプラントですが、こちらは津波によりほとんどが波に飲まれ全壊。所員は全員無事でしたが設備が稼働しない中での汚泥処理にチームワークで臨みました。
また釜石・大槌汚泥再生処理センターは事業所自体に津波の被害はありませんでしたが、所員は家や家族などそれぞれの生活の苦難と向き合うことになりました。
仙台:建物の基礎だけ残るかつての住宅地
仙台:震災直後の南蒲生浄化センター
釜石:津波が去った後の釜石市街地
巨大な水処理プラントを飲み込む巨大津波
仙台では街の中心部ではほとんど震災の影響を感じるることはありませんでした。賑わいのある街。しかしそこから車を30分ほど走らせると道1本隔てたその先はほとんど何もない、荒れた更地に工事用の車両がところどころで作業をしている風景に飲み込まれていきます。たまに見える家屋には津波の爪痕が。南蒲生浄化センターはこのさらに先、海近くにある規模の大きなプラントです。
「津波はここまで来ました。設備の多くは地下にあるのでほとんど一瞬にして水没です。」
施設内にいた所員は高所に避難して無事でしたが、気がつけばあたりはまるで湖のよう。外へ出る手だてはなくなり、幸いにも翌日にヘリコプターで救出されました。逆に外にいた所員は職場に戻る道が断たれ互いに連絡が取れないままずいぶん時間が過ぎたそうです。
やっとみんなが事業所で顔を合わせたのは震災から1週間後の3月18日でした。
「はじめこの事業所はもう復旧しないんじゃないかとあきらめていたんです。」
みんなで顔を合わせたら復旧のためになんでもやろうという気持ちが自然にわいてきたといいます。
とはいえ、停電状態で機械設備の復旧も目処が立たない中、手動での作業を開始することになりました。
「24時間交代で汚泥の脱水を手作業でやりました。目の前は海。余震が続く中夜になると真っ暗でとても怖かったと思います。」
と東北支店の笠原課長。各事業所のいろいろな状況を把握するのに苦労しながら、連絡の中継になったり必要な物資を調達するなどの業務にあたりました。
当時の各事業所の様子を良く知る一人です。
そのときを思い出して南蒲生の所員は口々に・・・
「でもこれで事業所が復活する兆しが見えた。」
「このときみんな復旧のために何でもやろうという気持ちになったと思います。」
と所長も話してくれました。
南蒲生浄化センター 右の建物上部近くまで津波が来ました
震災の翌日に所員はヘリで救出 その時の写真が貼ってありました
震災の1週間後に事業所に集まった所員。全力で復旧しようと誓い合いました
夜通し手動での作業をつづけた当時のことを語る笠原課長
みんなが一丸となったと所長
所員の暮らしにのしかかる津波のダメージ
津波は同時に釜石も襲いました。2014年の春。震災当時にいろいろなメディアで報道された釜石での被害の状況をイメージしながら街に入ると、中心地であまり地震・津波の影響は感じませんでしたが、海岸へ向かうに従って、ネジ曲げられ壊れた津波の爪痕と、かさ上げなど少々不自然な景色が混在する不思議な雰囲気を感じます。
釜石・大槌汚泥再生処理センターは小さな川の向こう側の高台にありました。
「震災の時は地震による破損や停電ですぐに稼働できなくなりましたが、幸い施設は津波による被害はありませんでした。所員も全員無事で。」
しかし、津波の被害はもっと別のところで大きな影響を与えることになります。
連絡手段が途絶えた中、膨大な瓦礫挟まれ、所員は自宅にたどり着くことができない。家族や友人の行方がわからない。そんな不安な日々が続きます。
「家にたどり着いたのは震災から2日目でした。ちょっと移動するのも大変な状況で。でもとりあえず毎日事業所には顔を出そうってみんなで決めていろいろな情報交換をしました。あの地区がどうなってるとかって。そして瓦礫の撤去、家族・友人の捜索もする。」
そんな中、千人単位で自衛隊や消防などが救助・復旧の作業にやってきます。こうした人々を受け入れその活動を支えるのも水処理プラントの使命です。家や家族・友人に気持ちを寄せながらも仕事をこなしました。
高台から見下ろすと津波が運び去った跡が
地震で無数のクラックができた釜石・大槌汚泥再生処理センター
海近くの陸橋では鉄柵が波の方向に折れ曲がっています
当時瓦礫の中を10m進むのに1時間かかった そうして家族や友達を探しにいかなければならなかった
東北地域を繋ぎ事業所と地域の復旧を目指す
同じ時、仙台の市街地にある東北支店でも各事業所との連絡は途絶え、停電や交通マヒなど業務を続けられる状況ではなくなっていました。
「津波のニュースが聴こえてくると、南蒲生はどうかな、楢葉の南地区センターは大丈夫かなと頭に浮かびました。」
「男性社員は誰に頼まれるわけでなく色々な事業所の調査に出かけたり、オフィスに泊まり込みで連絡業務をこなしたりと大変でした。」
と当時を思い出す事務担当のスタッフ。
「当時はやるしかないという思いでしたね。大変でしたが、東北支店や本社がいろいろ支援してくれたので仕事と家族・友人の捜索などなんとか両立できたんだと思います。」と釜石の川村所長。
「やっぱり暮らしを支えるインフラだから責任があるんだって、みんなが思っていたと思います。それぞれ厳しい状況でしたが、みんな一生懸命やっていました。」と東北支店の笠原課長。
それぞれの現場にそれぞれの状況があって、目の前には体験したことも無いような障害もあって。でも気持ちはみんな同じ方向を向いて、震災のその直後から復旧に向けて、まさに動いていたんですね。
みんなてさぐりで頑張っていたと東北支店の事務スタッフ
業務と家族・友達の捜索の両立は大変だったと川村所長
当時は管内の事業所に行き着くが難しかったと笠原課長
過酷な状況を乗り越えて手に入れたもの
南蒲生の所員にとって、暗く寒い海近くでの恐怖を伴う手作業をやり抜くことは、まさしくみんなで心に決めたことをやり遂げること。
「絆が強まりましたね。」
「信頼と、それから感謝の気持ち。」
「月並ですが命の大切さですかね。」
それまでの事業所にはなかった気持ちのパワーをもたらしたようです。
2015年。震災から4年目の春に再び南蒲生浄化センターを訪れると、事業所はほぼ完全復旧して大きな堂々としたプラントがまるで何事も無かったかのように、静かにいつもの仕事をしているように見えました。
でもよく見ると海側にあった窓は塞がれ、扉も波の力にも負けない分厚く重い扉に付け替えられています。
日々の業務も通常の作業に戻りつつありますが、実際には津波の被害を受けた地域の居住地などが元通りになったとはいえる状況ではないので、全てが以前と同じという訳ではなく、「震災後」というある意味新しい日々が始まったという感じでしょうか。
「あのときは本当にがむしゃらで、自然にみんなで力を合わせて手動での脱水作業などをやりこなしてました。ここまでできるんだという思いというか自信がつきました。このチームならきっとたいていのことには打ち勝つことができると思います。」
柔らかい口調で話す白岩副所長の笑顔は、実は相当な自信に満ちていたように見えました。