つながる、地球・くらし

KKEの現場レポート

戻ってくる町民の暮らしを支える

福島県・楢葉町北地区浄化センター|南地区浄化センター

原発事故が隔てた過去から未来へ向かう町

福島県双葉郡楢葉町。2011年3月11日の震災で事故が起きた福島第一原子力発電所のすぐ南側にある町です。人口を調べてみると7,400人程度とあります。日本初のサッカー・ナショナル・トレーニングセンター、「Jヴィレッジ」があることでも知られています。
原発事故直後に警戒区域に指定され、立ち入りができなくなり、地震、津波の傷跡もそのままに。その後除染が進み、2012年8月に避難指示解除準備区域となり、立ち入りが許可されましたが、未だに宿泊することはできないままになっています。(2015年3月現在)そんな楢葉町を震災の3年後、2014年に訪ねました。テレビや新聞などで見たあの震災の景色をなんとなく想像しながら、南側からクルマで町に入りましたが、不思議なことに自然豊かな普通の静かな町。はじめはそんな印象でした。少しずつ町の奥へ進んで行くとさらに不思議な雰囲気が。まず人気がありません。そして行き交うクルマにも、大きな観光バスにも作業服を着た人ばかり。
「あの時」の暮らしは止まったまま置き去りにされ、その代わりに除染や原発の廃炉作業といった原発事故の後処理がめまぐるしい勢いで動いている、そんな印象を受けました。

一見何事も無い普通の静かな町のよう

よく見ると壊れかけた建物が3年経ってもそのまま

除染作業とおびただしい数の黒い袋

原発事故で空白の時間が流れる

楢葉町の下水処理施設は2つあります。ひとつは海に面した南地区浄化センター。もうひとつは海岸から1キロほどの高台にある北地区浄化センター。クボタ環境エンジニアリングはその両方の運転・維持管理業務を行っています。
まず、北地区浄化センターを訪ねました。
ここは地震による設備等の被害はあったものの、津波の被害はほとんどありませんでした。
大きな揺れの地震のあとに避難指示が出され、所員はみんな避難したので無事でした。でも問題はそこから。
「避難先で、原発で爆発があったと聞いて、みんな大騒ぎになりました。」
結局、放射能の影響で2012年8月までの1年半の間、この地域には全く立ち入ることができなくなりました。
「とにかく仕事がしたくても、施設に近寄ることすら許されていなかった状態で、非常にもどかしかったです。所員のみんなも同じ気持ちでした」
と岩間所長。その間に敷地内は雑草だらけ、水槽には水草や藻が生え、要のバクテリアも使いものにならなくなっていました。やっと解除になってやる気満々で浄化センターにやって来たときにはその悲惨な状態に唖然としたそうです。
2014年の春の時点では少しずつ施設も稼働を始め、本稼働に向けた準備が進められている状態でした。でも震災後に発生した脱水汚泥も放射能の影響で処分することができずに水槽に並べてある状態のままなど、目に見えない放射能との戦いが、これまで見たことも無いような光景を目の当たりに突きつけてきます。

楢葉町北地区浄化センター

所員はベテランと新人の混合チーム

震災後の処理した脱水汚泥も放射能で処理できずそのまま

一年半後戻ってみると雑草と水草が

津波と原発事故によるゼロからの再スタート

楢葉町の北地区と南地区を区切る木戸川。この川を津波は逆流してきました。地元生まれ、地元育ちの岩間所長も小さい頃よく遊んだそうです。震災前にはここでサケの人工ふ化をやっていて、9月になると10万匹のサケが登ってきたと話してくれました。
「このところ震災後に自然のサケが戻ってくるようになりました。これからここで自然に生まれたサケが戻ってくるようになると思います。」と少しうれしそう。地元の暮らしと地元の水が愛おしい。そんなムードを感じました。

所長が幼い頃遊んだ木戸川を境に南地区と北地区が別れます

南地区浄化センターはもう目の前が海。震災のときは建物の屋根まで大津波がやってきて、瞬時にして全ての設備が全壊しました。
こちらも北地区浄化センターと同じく、放射能の影響でしばらくの間手つかずのまま放置されました。
そして、1年半後に再建の作業をスタート。実際に工事に入るまでには放射能防護服を着て放射線量の測定をしながら現地調査を開始するなど、調査から工事へとこちらでも目に見えない放射能との戦いの日々が続きました。
新たに建てられた建物の扉は波に打ち勝つ厚さになり、海側の窓は塞がれ、波が侵入できないように作られ、津波への対応をかなり意識した造りになっていました。

津波で全壊した南地区浄化センターの復旧工事が進みます

津波が屋根まで届いた建物の修復工事も完成間近

放射能と向き合いながらの工事

新たな津波対策も各所に

まだちゃんとは動かない監視システムの前で少しうれしそうな所長

人が住まない町相手に水処理を再スタート

津波の被害を受けなかった北地区浄化センターでは警戒区域解除に伴って始められた除染作業の作業員などのために、いち早く処理を再開する必要がありました。
「震災前のように安定した量の処理ができないという、これまで体験したこのとのない状況で運転をしなければならい。みんなでどうしようか話し合いながら手探りでの再稼働でした。」
まだ人が住むことができない町が復旧するための人々の活動を支える水処理。
北地区浄化センター自体も除染作業で表面の芝や土がはぎ取られ、殺伐とした風景の事業所になってしまったそうです。
「ここは警戒区域解除後いち早く処理を再開しました。だから復興のシンボルにしようと所員みんなで花を植えることにしたんです」
作業の合間に花壇を整備して植えられたシバザクラは小さな花を咲かせ始めていました。

除染で殺風景になった事業所に花を植えて復興のシンボルに

2014年春シバザクラの花が咲き始めていました

そして戻ってくる町民に思いを寄せて本稼働へ

2015年春。震災から4年目の春に再び楢葉町を訪れると、町の雰囲気は少しですが変化しているようにも見えました。たとえば前回来たときには閉ざされて3月11日のスポーツ新聞が置かれたままだったコンビニは昼時になると作業員で賑わいを見せていたり、周りに足場を建てて修復しようとしている家屋があったり。元通りになるというのとは少し違う感じですが少なくとも止まっていたものが動き出している予感は感じることができます。

南地区浄化センターではほぼ復旧工事も完了し、モニタには楢葉町の各所に配置されたポンプが正常に動いていることを示す画面が表示されていました。
北地区浄化センターも様々な設備の修復も完了してほとんど新しい施設として再稼働を始めたところです。
「震災のおかげといっては何ですが、復旧工事でいままで見たこと無かった施設や設備の構造など隅々まで見ることができてこれからの運転にきっと役立つことがいろいろあると思います。」
「人が住んでない町なので震災前とは全く違う環境条件で運転しています。マニュアルとかにもないのでみんなで知恵を出し合って。運転のウデが上がりますね。」
なるほど、通常の業務では体験することのできないことをたくさん乗り越えてきたんですね。
「震災を機に町民の皆さんも下水が大事だということに気がついていただけたようです。、下水はもう大丈夫?と聞かれることがありますよ。」
水処理プラントは普段は気にされることもないインフラですが、水道や電気と同じように人が暮らしたり活動したりするのには絶対不可欠なインフラです。
「今は人が住まない町相手に難しい運転を迫られ結構大変な毎日です。でも町に帰ってきたいと思う町民の皆さんのために頑張る。所員みんな同じ気持ちだと思います。」
2014年に来たときも、2015年に来た時も、どんな気持ちで作業していますか?の問いに、帰ってきた所長の言葉は同じでした。

2015年に再び出迎えてくれた事業所のメンバー
少し貫禄がでた感じ?でしょうか

北地区浄化センターでも放射線の測定や水質の検査など
毎日の仕事が始まっています

復旧していよいよ本稼働を開始する
南地区浄化センター

町内各所で稼働するポンプの状況が一目で分かる画面には、町内各所のポンプの様子が表示されていました。

戻ってくる町民のためにという思いが貫かれていました